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緊急寄稿4

商業施設の建築やデザインをとりまく環境は社会の価値観や経済情勢に連動して変化する。
逆に言えば、商環境デザインを通すことで時代の価値観の変遷を読み解くことができる

昭和の高度経済成長期に生まれ育ち、10代はポップカルチャーの洗練を受けて過ごした。その後デザインを自己主張の手段として選び、バブル崩壊寸前に会社を設立。失われた20年と言われる歳月を空間デザインと共に時代と格闘しながら駆け抜けてきた。アナログから情報デジタル社会へと時代がシフトしてグローバル化へと進む社会にあえて背を向け、ローカルに身を持し”過多過密”なものを避けた華麗で過激な半隠居生活を妄想していたのだが…。そんな矢先に未曾有のパンデミックが湧いて出てきた。
デザイナーとして茨の道を歩んできた経験をリアルタイムな事象として、商環境デザインの背景について少し触れておきたい。

 

■クライシスはその時代の価値観や美意識を顕在化させてきた
2008年のリーマンショックは日本の消費をデフレスパイラルに落とし込み、商業デザインの意義や主体性までも変える出来事になった。さらに2011年の東日本大震災では街や建築の在りかた、日本人の暮らしに対する価値観を根底から大きく揺さぶることになった。そして今回のコロナ禍は商業デザインの発する街場の集い、賑わい、刺激、そして文化、それらの営みがつくる関係性までも切断し、社会全体を覆う先の見えない閉塞感を醸し出した。

 

■リーマンショックの難儀
1992年東海道新幹線にのぞみが走り始めて、東京の一極集中は加速した。それまで大阪に本社を置いていた大企業が、こぞって本社機能や情報発信基地を東京へと移し始めた。関西在住の多くのクリエーターたちも、その活動を東京へ移していった。弊社も東京に事務所を構え、全国展開するアパレルメーカーの規範店のデザインを多岐にわたり展開するようになった。
その頃のアパレルメーカーは卸売をせず、自社製品を直営の小売店で販売するSPA(製造小売業)構造を取り入れていた。自社で店舗を運営しているため、店頭からの最新の市場ニーズが社内で共有できるようになり、その結果シーズンの売れ筋をすばやく追加生産に結びつけ、業績を伸ばしていた。また、大手のセレクトショップもSPA方式により、セレクト商品よりも粗利率のよい自社のオリジナルブランドを中心にして店舗数を拡張していた。

2008年リーマンショックによる金融不安が消費を落ち込ませ、結果的に日本経済の大幅な景気後退へ繫がっていった。東京事務所は各プロジェクトに対応して拡張した業務が新規出店中止により縮小され、後に東京事務所の閉鎖に及んでしまった。時を同じくして上海事務所も世界的な経済の冷え込みにより解散することになった。
補足:「つくりたい商品を販売する〜売れるから商品をつくる」効率性だけが売り場を満悦していた時代であった。

 

■東日本大震災の教訓
21世紀に入り、内閣府を中心に地域の課題に取り組む都市再生プロジェクトが始まり、大阪でも中之島を中心に河川の一部が国土交通省による社会実験区域の指定を受け、一定の枠組みのもと規制緩和された。大阪府は民間事業者による開発コンペを実施、私自身も開発会社とチームを組み、同コンペに参加して事業の権利を取得した。水辺空間の新たな可能性を具現化していかなければならない。今まで水際に近づかなかった人々を集客することにより、改めて大阪の都市魅力を発信していく必要があった。水景を楽しみながら食事をする、芸術に触れる、ベンチに座り水辺でくつろぐ、情景と共に行為が豊かさを創り出す。此処にしかない魅力づくりを目指し、水上カフェ、レストラン、チャペル、ギャラリーを誘致して、水都大阪ならではの親水空間の計画を立てた。”中之島に・集い・築き・積み上げる”という意味から「中之島バンクス」と命名し、行政による社会実験の委託事業としてスタートした。

2011年3月11日の東日本大震災により日本は未曹有の危機におそわれ、私たちはこれまで体験したことのない厳しい環境下に置かれた。震災の影響を受けた消費者マインドの急激な悪化、自然への畏怖、日本の安全神話の破壊。
河川敷に親水空間を創造して「自然との共棲」を掲げた新たなライフスタイルの提案は”風前の灯火”となり、プロジェクト自体が延期されることになった。
補足:行政には河川を都市魅力として創造するサービスと河川の治水を守る任務がある。

 

■コロナショックの行方
オリンピックが東京開催に決まったこともあり、長く続いた日本経済の停滞にも明るい兆しが見えてきた。その中でも観光立国の実現をめざす一連の取り組みは、商環境デザインの分野においても新たなニーズを取り込む絶好のチャンスにあった。とくに関西は、歴史・文化の観光資源が豊富で交通のインフラも発展しており、急速に成長するアジアをはじめ、世界の観光需要を取り込むポテンシャルある地域である。

ここ数年、京都を中心に空家になった町家再生の仕事を受ける中で、特に宿泊施設としての活用することの意義を強く感じていた。しかし建造物の耐久年数や収益の観点から、室内の改修には費用を掛けられない。それなら自分達が建物の所有者となり、日本の伝統的な職人技を結集させ「粋な暮らし文化」を継承して後世に残したくなるような宿を造りたいとの想いから宿経営をはじめた。
私が生まれた堺にも普請道楽な文化があり、残存する建造物を再生して地域コミニティの場づくりとしてカフェや宿泊施設の運営に取り組んだ。

かつて北浜は大阪経済の中心地であり、金融街として活況を呈するエリアであった。バブル崩壊以降の長引く不況、また金融の資本統合やシステム化なども進み、銀行や証券会社などが街から姿を消し始めた。
数年前に北浜の河川沿いに築60年の空きビルを自社の事務所ビルとして取得することになった。当時は人の往来も店舗数も少なかったが、その後河川沿い飲食店が集積するようになり、水と緑、自然と都市の融合がつくりだす風情のある景観が観光資源となり、人気のエリアとして急激に発展してきた。
インバウンド需要も高まり、その事務所ビルをリノベートして大阪のヘリテイジを体験できる宿泊施設を起ち上げた。リバーサイドに位置した穏やかでプライベートな空間。大阪の主要観光地や京都への良好なアクセス。独立系ホテルならではのパーソナルなサービス。客室機能のみならず、パブリックスペース(ギャラリー、カフェ、サロン、ルーフトップバー)の空間を使い、イベントの発信や独自のオペレーションを磨いてきた。

開業から一年となる今春、評判や口コミが徐々に広がり業績予測は実りを見せていた。その矢先にコロナ禍の到来。緊急事態宣言をうけ2カ月間の休業を余儀なくされ、再開はしたものの大きな試練が待ち受ける。
補足:北浜の街にも無個性なホテルが乱立しだし、この界隈に過密は似合わないと感じていた。

 

■逸脱と創造
1978年。私は大手設計事務所に入社して、商環境デザインの仕事をはじめた。当時、百貨店や都心のテナントビルは商環境デザインの花形であった。バブル経済に突入し、モノの価値観、生活の様式が多様化しはじめると、私はメジャーな領域よりもエッジの効いたマイナーな領域の方が“自分らしい”と感じ、小さなデザイン事務所へ籍を移した。その後フリーランスになり、30年前に株式会社インフィクスを設立した。『特定の様式や主義にとらわれることなく、時代が欲するムードを表現し、その中に潜む普遍性を追求する』をスローガンに掲げて始動した。

あえて時代の王道枠から逸脱し、あるいは枠組みを壊し、何もない場に自らの手で線を引き、今までにないフレームを創り、そのフレームが出来上がり、メジャーになるとまた逸脱し、さらに新しい場に領域を創る。もしかして商空間をデザインするという行為の本質は、常にこうしたプロセスの中に生まれるのかもしれない。
幾度かの災害や危機で変化した価値観を適格に把握して、商空間デザインの強みを活かせる市場のニーズ、新たな需要をみつけ、対応していくことが大切だと思う。

いつの時代でも、人は刺激的な何かを探し、心を癒す場所を求めている。何処にいようとも人は“活きること”を、生活を楽しむことを求めている。だからこそ、時代が変わっても都心の店舗空間に求められるものは変わらない、どんな時代でも人と人とのつながり、街とつながり、人が何かと共生し再生する場として、デザイナーの創出する商業空間は永遠に存在し続けるだろう。(まみや・よしひこ)

 

間宮吉彦/株式会社インフィクス代表取締役
1958年大阪生まれ。空間デザインの創造において、特定の様式や主義にとらわれることなく、常に時代のムードを表現し、その中に潜む普遍性を追求。その場のモノではなく、コト自体を重視し、そこにしか存在し得ない空気感を表現し、根源的に「場」のチカラを発揮させる本来のデザインを目指す。

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